文法が嫌いだった私
私は高校の英語はあまり得意ではありませんでした。特に文法が嫌いで
そんな面倒な決まりを覚えて何になるんだ
って毒づいたものです。確かに当時英語を話す必要もなかったし、ただ成績のために勉強するということにモチベーションを保つのが難しかったと思います。それに若さゆえの楽観からか
なんとかなる
とも思っていました。
文法は礼儀作法の一つ
文法というのはそもそも言語の成り立ちの前にあるものではないと思います。なんとなくコミュニケーションが発生し多くの人が関係しお互いの誤解を避けるためにだんだんと決まりができてきて、ある時それを明確にまとめたものが文法と呼ばれるものになります。文法をまとめるのはその言葉を話す当事者かもしれませんし後代の人が文献をもとに導き出したものかもしれません。文法で語られる決まりというのは言葉の礼儀作法と言えます。
もちろん文法を覚えていなくても英語で上手にコミュニケーションが取れる人はたくさんいます。その人がなぜ上手になったかというと英語を話す人に囲まれてその中で上手に周囲に適応しようと努力したからです。周囲の人たちの言葉を聞いたり自分の発言が伝わっているか丹念に確認し一定のルールを導き出しているのです。それは絶え間ない努力のいることで素晴らしいと私は思います。なぜならそのルールは自分専用のカスタム英文法なのですから。
とはいえカスタム英文法の作成は労力の必要なことなので世に知られている普通の英文法を利用するのは理にかなっています。長い間に検証された確かな礼儀作法の集大成なのですから。
もちろん既存の文法だけで全てを表現できるとは限りません。でもそんなときに頼りになるのも文法で培った常識だったりします。このことは高校生の私に会えたら是非伝えたいと思っています。
文法と感性
古典言語を学ぶにあたって一つ問題があります。それはその言葉を日常的に話す人がいない、あるいは極端に少ないのでカスタム文法を作ることができないことです。文献は読むことはできますが質問しても答えてくれません。なので私たちは現存する文法に頼らざるをえません。
それでも文法があるというだけで有難いことです。過去には見知らぬ言葉をなんの参考資料もなしに解読した人がいるのですから。
ラテン語を学ぶ際に私は手に入るテキストを読んでその通りに自習しましたがなかなか理解できず丸覚えをしては忘れることが続きました。なぜかというと不必要と思える規則がたくさん存在して自分の感性と文法が一致しなかったからです。
例えばフランス語を学ぶ人はそれぞれの名詞が男性と女性に別れることに戸惑います。「お父さん」は男性、「お母さん」は女性あたりは納得できても「愛」が男性とか「嫉妬」が女性とかになるとちょっとわからなくなってきて
名詞に男性とか女性なんて分類は必要ないのではないか?
と言いたくもなるでしょう。でもこれを聞いたフランス語話者は理解してくれるでしょうか?
では逆に日本語に対してこんなことをいわれたらどう思いますか?
人間は一人二人、鳥は一羽二羽、箸は一膳二膳、靴は一足二足、タンスは一棹二棹。いちいち覚えるの面倒だよ。みんな一つ二つって数えればいいじゃないか!
日本人であればこの意見は受け入れがたいでしょう。この数え方の持つ独特の感覚は外国の人に説明するのは難しそうです。
同じようにフランス語の名詞の性には外部の人がうかがい知ることのできない日常的な感覚があると推測できるでしょう。
文法を学ぶことはその言葉を話す人たちに対する配慮や礼節につながるものと言えないでしょうか。
文法の楽しみ方
ここまでくると少し気持ちが楽になるはずです。見知らぬ文法規則に出会うことは見知らぬ国で出会う見知らぬ風習と共通するものです。文法を学ぶことは古典世界への楽しい旅の経験になると思います。